2011年3月2日水曜日

統合化とモジュール化 二重らせん構造 5

「技術革新対応にはモジュール化」は正しくない。
Langlois and Robertson(1992)がパソコンの激しい変化を念頭において、モジュール化の意義として技術革新への対応を挙げて以来、「技術革新対応にはモジュール化」という見方は我々の経験に照らして当然のこととして広く受け入れられてきた。
だが「技術革新対応にはモジュール化」は正しくない。十分には正しくない、と言うべきだろう。なぜならファイン、クリステンセンが指摘するように統合型、モジュール型はそれぞれ異なる状況に適しており、異なるタイプの技術革新に対応するからだ。製品アーキテクチャ自体を変えるような大きな技術革新は全体を統合していないと対応できない。ある程度製品アーキテクチャが落ち着いてくるとモジュール化が進行し個々のモジュールレベルの技術革新に対応する。

「モジュール化も統合化も技術革新に対応する」のである。

だがこの説明は1990年代のアップルについて直感的な疑問を呼び起こす。
パソコンが成熟期に入って大きな変化がなくなりモジュール化が進んだことと、パソコンの世界では激しい変革が続いたからハード面でアップルが追随できなかったという事実を同時に説明できるのか。

1977年設立のアップルを追ってIBMが最初のパソコンIBM-PCを発売したのが1981年。それ以降、IBM互換機と周辺機器市場が急速に立ち上がったが、初期には他の独自規格PCがあったし、アップルも強い支持を得ていた。IBM-PC互換機の基本形は初期から今に至るまでさほど変わっていない。一方で処理速度、記憶容量は初期から現在に至るまで長期にわたって激しく向上し続けている。我々が1980年代から1990年代後半にかけて目にしたパソコンの熱い激動は、アーキテクチャが落ち着いた後のコンポーネントレベルの技術革新だったのだ。

それでもなお疑問が残る。
1980年代から1990年代に渡って、単にコンポーネントレベルだけではなく、バスは8 bit, 16 bit, 32 bitと上がり続け、接続コネクタもシリアル、パラレル等の専用コネクタから、汎用コネクタであるUSBと変遷した。さらにCPUが286, 386, 486, ペンティアムと変わるたびに周りのハード、ソフト、OSすべてが協調して対応しなければならない。モジュール間のインタフェースが固定されているから各部品メーカが勝手に開発、では越えられない壁をいくつも乗り越えてきたのがIBM-PC互換機の歴史だ(*1)。

例示したバス、USB、CPU。これらには共通点がある。それはインテルがコントロールしている点である。インテルは自らの担当モジュール開発にとどまることなく、周辺機器ベンダーを初めとするサードパーティをうまくとりまとめPC全体の能力をアップさせる多大な努力をしてきた。この点はガワー、クスマノ(2005)に詳しい。いわゆるプラットフォームとかエコシステム(生態系)いうものだ。
PCのハードウェア/アプリケーションソフト/周辺機器を仲立ちするのがOSである。だからインテルがPCの基幹部分のジャンプアップを行うとき、必ずOSの事前の密接な協力が必要であり、インテルとマイクロソフトの密接な協業がPCの長期発展には不可欠であった。

1980年代前半に決まったIBM-PC互換機の大枠の中で、インテルとマイクロソフトが協力して20年以上の間、速度と容量を劇的に増大させ続けてきたが、そのためには部品/周辺機器/アプリケーションソフト関係者すべての調整が必要であった。言い換えればモジュール型の弱点である、全体統括者がいない点およびモジュール間の調停者がいない点をインテルとマイクロソフトが補ってきた(*2)。これがPCの歴史を例外的たらしめている大きな要因であろう。

ファイン=クリステンセン説でまとめれば、IBM-PC互換機は早い時期にアーキテクチャとしての成熟期(安定期)に入り、モジュール化された。その後常に「速度」「容量」が常に顧客の要望だったため、「速度」「容量」向上を果たすための「十分でないところ」、即ちCPUとOSはモジュール化されず部分的に統合型となり、その結果、部品、周辺機器、アプリケーションソフトメーカーはインテルとマイクロソフトが定める固定インタフェースに則って各モジュールの性能向上に集中できた。

これで万事めでたしと言いたいところだが、ファイン=クリステンセンはこうも指摘している。
不十分であったところもやがて十分になり、顧客が追加コストを支払わなくなって再度モジュール化が進行する、と。PCにおける「速度」「容量」が十分になったら何が起きるのだろうか。

(*1) 逆に言えば、IBM-PCアーキテクチャの限界を超えられなかったなら、我々は現在もう少し素敵な「別のPC」を手にしていたのかもしれない。
(*2) 過去の資産も考慮すると、周辺機器×ソフトウェア×内部部品の組み合わせは膨大な数に上る。本来モジュール化された製品では後方互換性に誰も責任を持たないが、PCではインテル、マイクロソフトが可能な限り互換性を確保する努力をしてきた。昨今話題のアンドロイドについてこの問題はどうなるのであろうか。

<参考文献>
浅井澄子『情報産業の統合とモジュール化』日本評論社 2004
アナベル・ガワー、マイケル・クスマノ、小林敏男監訳『プラットフォーム・リーダーシップ』有斐閣 2005

統合化とモジュール化 二重らせん構造 4

クリステンセン(2003)は、モジュール型と統合型(*1)にはそれぞれ適した競争状態があるという。ライフサイクルに応じて競争状態が変化し、その変化に応じて最適な構造が選択されるべきということだ。

1)統合型
製品が十分でない状況では統合が有利である。製品が機能性と信頼性が十分でない状況では、企業はできる限り優れた製品を作る必要がある。モジュール型はインターフェースの標準化により設計の自由度が低いから、統合型の提供する機能性、信頼性にかなわない。

2)モジュール型
製品機能の向上が一段落すると、大きな変化はなく持続的部分的改善が進む。機能性と信頼性は十分なレベルに達したのだ。機能性はもう十分なので、インターフェースを固定して多少の自由度が制約されても問題ない。統合型でより良いものを提供しても顧客はそれを評価してくれない。顧客の要望は便利さや速度にシフトしてくる。これに対応するにはモジュール化が適している。こうしてモジュール化が進行する。
言うまでもなく、導入期・成長期を生き延びてきた過程で、参入をもくろむ競合企業は多数存在しており、彼らがモジュール毎に特化して侵食してくる。

3)再統合
時間の経過につれ製品が普及し、改善が進み、やがて顧客が重視する機能がシフトする。例えばパソコンの機能性と信頼性が向上し業務用途もこなすようになると、顧客の要望はマイクロソフトのOSと明確なインターフェースでつながったサードパーティのソフトウェア、例えばワードパーフェクトやロータス123を使うようになった(モジュール化)。さらにソフトウェア同士のデータやり取り(テキストファイルに限らず罫線、図形、計算式と値等々)が要求されるようになると、ふたたびその分野は十分でないことになり、マイクロソフトがOSとアプリケーションソフトの統合を行ってこれに対応した(統合化)。

再統合について、もう少し説明しよう。
ある製品が導入され成長する過程では製品の姿はしばしば変更され安定しないが、成熟期に入ると大きな変更は少なくなる。ここでいう製品の姿とは乗用車で言えば4本のゴムタイヤ、ハンドル、ブレーキとアクセル、エンジン、座席と荷室といった要素の組み合わせだ。これらをアーキテクチャという。成熟期に入って製品アーキテクチャが安定し累積ユーザ数が増大すると、顧客の要望がシフトしたときに影響を受けて統合化されるのは全体アーキテクチャの中の一部分である。パソコンならインテルCPU、マイクロソフトのOS、ハードディスク、キーボード等のアーキテクチャが定まったあと、その中で例えばOSとアプリケーションソフトの統合が起きる、ということだ。

従ってモジュール化から再統合化への流れはファインがいうような完全なゆり戻しではなく、あくまでもモジュール化構造の中で部分的な統合化が生じる、ということになる(*2)。

ファインの二重らせん構造をクリステンセンの指摘に伴い若干調整して製品ライフサイクルと重ね合わせると以下のようになる。

ライフサイクル
導入期
成長期
成熟期
衰退期
統合/モジュール
統合型
モジュール型
(部分的統合)
性 能
不十分
十 分


ここでクリステンセンによる1990年代のアップル凋落の説明を引用してみよう。

「パソコン産業の草創期には、独自アーキテクチャを持ち、最も統合化の進んだ企業、アップルコンピュータが、ずば抜けて優れたデスクトップコンピュータをつくっていた。これらはモジュール構造のコンピュータに比べて使いやすく、クラッシュの頻度も低かった。やがて、デスクトップ・コンピュータの機能性が十分上がると、IBMのモジュール型のオープンな標準アーキテクチャが優勢になった。十分でない状況では競争優位だったアップルの独自アーキテクチャは、十分以上に良い状況では競争の障害となった。モジュール式マシンを製造する特化型メーカーがパソコン産業の爆発的な成長を捉えると、アップルはニッチ・プレーヤーの地位に追いやられた。」(*3)


(*1) 同書では相互依存型となっているが、ここでは統合型としている
(*2) 実際には成熟期・衰退期には企業の水平・垂直統合が相当程度進むことがあるが、それはここで論じているモジュール化/統合化とは異なる要因によるものである。それらについても後ほど考察しなければならない。
(*3) クリステンセン(2003) pp.165-166

2011年3月1日火曜日

統合化とモジュール化 二重らせん構造 3

以前も書いたが、2000年のIT革命の騒乱の中で畑違いの分野からICTベンチャー創業に参加した。当時最先端だったウェブ制作やネット通販ではなく、地味な通信系だった。白状すると、ネット系と通信系が別々とみなされている、もっと言えば仲がよろしくない、というのを知ったのはだいぶ後になってからだ。まあでも、インターネットを広めたいという目的を果たすには間違っていない選択だった。
で、2000年の転職以来、しばらく仕事が忙しかったのでIT革命の意味とか今後を考えることから遠ざかっていたのだけれど、5、6年前に仕事が一段落したこともあり、社会人大学院(MBA)の門を叩いた。

入学してベンチャー論の関係文献を読んでいったのだが、実務家としてかなり違和感を感じることが多かった。それは2000年頃以前と以後では良くも悪くもベンチャーを取り巻く環境が大きく変わったので、2000年以前の文献を読んでもピンとこないのだ。会社を作って新興市場(現ジャスタックのこと)に上場するのに平均30年以上とか、それを前提にしたメインバンクからの借入れのポイント、とか言われても困る。問題は状況の変化であって、もちろん研究者のせいではない。

そんな中でベンチャー論とは関係なく読み始めたクリステンセン『イノベーションのジレンマ』に衝撃を受けた。大会社が小さな会社に倒される。そしてそれは経営者の失敗ではなく当然の成り行き。新しい事業には小さな会社が向いている、というメカニズムを理路整然と説明しているのだ(*1)。それを読んで、あぁベンチャー論で自分がやることはない、と悟りを開いた(*2)。

で、本題。
そんな我が心の師匠クリステンセン先生が、クリステンセン(2003)で統合化とモジュール型に言及している。しかもファイン(1999)の二重らせん構造、すなわち製品ライフサイクルの中で統合化/モジュール化が繰り返すという見方をベースに(*3)。

(*1) 同書は大企業側の視点で記述されている
(*2) それは筆者の心中の叫びであり、実際には研究テーマは事例にせよ実証にせよ、たくさんありますので、やる気のある方はふるってご参加ください
(*3) クリステンセン(2003) p166

<参考文献>
クレイトン・クリステンセン、伊豆原弓訳『イノベーションのジレンマ 増補改訂版』翔泳社 2001
クレイトン・クリステンセン、マイケル・レイナー、櫻井裕子訳『イノベーションへの解』翔泳社 2003

2011年2月27日日曜日

統合化とモジュール化 二重らせん構造 2

実はファイン(1999)は、1990年代後半、パーソナルコンピュータの分野で統合型のアップルがモジュール型のPC(いわゆるIBM互換機)に敗退したことに言及している。ちょっと長くなるが引用してみよう。

「同社のマッキントッシュはパソコン業界で技術的に傑出した製品になっていた。しかし、アップルコンピュータは、マッキントッシュの主な優位性がハードとソフトのパッケージではなく、OSにあることを自覚していなかった。その結果、同社はその傑出したOSを低品質のハードウェアと一括して垂直/統合構造に組み込んでしまったのだ。一方、IBM互換機を選んだパソコン・メーカーの場合は、サブシステムがそれぞれの分野で厳しい市場競争で優位に立つことによってアップルコンピュータを追い抜いた。結局、マッキントッシュOSはハードウェアが足かせとなり、モジュール化の進展とパソコン市場の競争激化に対応できなかったのである。(*1)」

そしてファインはアップルがモジュール化を受け入れOSとソフトウェアに特化していれば競争に勝っていたかもしれない、と指摘している。

ここでアップルあるいはスティーブ・ジョブズに詳しい人ならパソコンの父、アラン・ケイの
"People who are really serious about software should make their own hardware."
「ソフトウェアを真剣に考えるなら、それに合わせたハードウェアを作るべきだ」
を思い出すかも知れない(*2)。
目指す使い勝手を実現するには一社が統合的に手がけるべき、ということだろう。これもまた一般論としてうなずける。そして実際にアップルはファインの忠告にもかかわらず(?)、現在もこの方針を堅持しているのだ。

激しい技術革新を取り入れるならモジュール化。ソフトを「真剣に」活かすなら統合。
1990年代後半に統合で失敗し、2011年現在統合で大成功しているアップル。
謎は深まるばかり。

(*1) ファイン(1999) P74
(*2) スティーブ・ジョブズがMacWorld 2007で引用

統合化とモジュール化 二重らせん構造

統合化/モジュール化の定義を検討したときに触れたように、「垂直統合」の意味は経済学、経営学のそれと同様である。従って経済学、経営学の垂直統合にかかる知見が有用だと思われる。
ノーベル経済学賞を受賞したコースやウィリアムソンの取引費用論をはじめ、企業の規模と活動範囲については多くの優れた先行研究が存在するが、ここではファイン(1999)に注目したい。

ファイン(1999)はある産業の産業構造が垂直統合と水平分業/モジュール化の間を往復することを指摘し、これを二重らせん構造と名づけている。例えば自転車産業の黎明期である19世紀半ばには小規模ながら垂直統合型企業が主流であったが、その後20世紀にはいる頃には米国で部品メーカと組立業者の水平分業が確立していた。その後、再び組立業者が配送、販売のバリューチェーンも確保して統合化を進めたという。
コンピュータ産業を見ても、もともとIBMが垂直統合で強大な力を誇っていたが、システム/360以降モジュール化が進み始め(*1)、PCの導入を機に水平分業/モジュール化が一気に支配的となった。その後PCの水平分業で覇権を握ったマイクロソフトはOSからアプリケーションソフト、ブラウザ、サーバと統合化を進めた。インテルもまたチップセットの統合化を進めた。

このように(程度の差はあるにせよ)モジュール化はICT産業特有ではなく他産業でも観察されるし、ICT業界においても2000年代後半のアップルを待つまでもなく統合化から水平分業、そして統合化の動きが繰り返されているのである。
いくつかの事例を観察すると、ある産業の黎明期には垂直統合型で始まり、やがてモジュール化されて水平分業化が進行、さらに今度は統合への動きが始まるというパターンが見られる。
その往復運動の原因についてファイン(1999)は、以下のように異なる力が作用すると説明している。

■垂直統合からモジュール化への動き
ニッチ市場への新規参入による競争、組織が官僚的になり硬直化する大企業病

■モジュール化から垂直統合への動き
あるモジュール(サブシステム)が傑出すると支配力を持ち、他のサブシステムを統合する

要するに産業ライフサイクル説の一種であり、うなずける気もするが、疑問も生じる。
1990年代後半、マイクロソフトがブラウザ等に活動範囲を拡大(統合化)する一方でアップルは統合型ゆえに失敗し存続の危機に立たされたのはなぜか。その後も一貫してICT産業においてモジュール化が支配的である続けているのはなぜか。そしてなぜ2011年現在、アップルが再び統合化で攻勢をかけているのはなぜか。

垂直統合とモジュール化の往復運動のどこに我々はいるのか?」


(*1) ボールドウィン、クラーク(2004)

<参考文献>
ボールドウィン、クラーク、安藤晴彦訳『デザイン・ルール』東洋経済新報社 2004
チャールズ・ファイン、小幡照雄訳『サプライチェーン・デザイン』日経BP社 1999

2011年2月26日土曜日

モジュール化の定義 再整理

モジュール化の定義」エントリに書いたとおり、モジュール化の議論の範囲は広い。議論のために少し範囲を絞り込んでみよう。

モジュール型/統合型の観察対象には垂直方向と水平方向がある。経済用語の垂直統合、水平統合と同様の意味である。ここでは両者を区別し、垂直方向の統合化/モジュール化に対象を限定する。具体例を挙げると、iPhoneに通話機能とメール機能があるのは水平統合だから、ここでは議論の対象にしない。iPhoneのアプリはiPhoneとApp StoreとiTunesで垂直に統合されているので、ここでの議論の対象になる。
この結果、多機能(汎用)/特定機能(特定用途)の議論はここでの対象から外れる。それは水平統合の議論だからである。製品内のアーキテクチャを議論したUlrich(1995)、試行錯誤による技術革新を指摘したLanglois and Robertson(1992)の違いは後に大きな意味を持つ(はず)だが、先に進もう。

次に分析対象を特定する必要がある。一口にICTと言ってもiPhoneか、PCか、それともクラウドか。ここではインターネットのレイヤー構造を全体のフレームワークとし、iPhoneやPCをその内部構成要素と考える。

インターネットのレイヤー構造(*1)
   
 
コンテンツ・アプリケーション
レイヤー
 
  
 
プラットフォーム(認証課金)
レイヤー 
 
  
 
ネットワーク
レイヤー
 
  
 
端末
レイヤー
 
   


このフレームワークをベースにアップルのiPodで音楽を楽しむ、という用途を以下に図示する。

アップル iPod
   
 
コンテンツ・アプリケーション
レイヤー
 
iTunes
楽曲購入,管理
  
 
プラットフォーム(認証課金)
レイヤー 
 
iTunes
アップルID認証
クレジットカード決済
  
 
ネットワーク
レイヤー
  
  
 
端末
レイヤー
 
PC
iPod
楽曲購入,管理
音楽再生
   


図中の4つのレイヤーのうち、3つがアップルによって提供されており、かつiPodを使う限りアップル以外では代替不可となっている。これが「アップルが統合的である」と指摘されるゆえんである。一方、谷脇(2008)が指摘するように、ネットワークレイヤー(インターネット接続)にはアップルは関与せずユーザの選択に任されている。また端末レイヤーのPCも同様にユーザの自由である。アップルは通信を持っていないが、Macを販売しているにも関わらずPC部分を統合せずオープンにしている点は注目に値する。

このようにインターネットのレイヤー構造をフレームワークとして垂直構造のみに着目してモジュール型/統合型を分析すると、iPodについてアップルは統合的であるが、完全に統合してはいないし、自社が競合製品を提供しているにもかかわらず統合せずオープンにしている部分が存在することがわかる。これはアップル自身がやみくもに垂直統合を推し進めているわけではなく、統合型とモジュール型それぞれに意味があることを暗示している。


(*1) 総務省 通信プラットフォーム研究会報告書(2009) をもとに若干加筆

<参考文献>
Karl Ulrich(1995), "The role of product architecture in the Manufacturing Firm," Resarch Policy 24
谷脇康彦『世界一不思議な日本のケータイ』インプレスR&D 2008

モジュール化 問題の所在 まとめ

ここで論点を整理。
観察された事実
1)ICTの世界ではモジュール化が他の産業に比べて支配的
2)アップルは1990年代にモジュール化のPCに敗れたにもかかわらず、近年再び統合型製品で世を席巻している

一般に指摘される要因
(A) デジタル化
(B) モジュール化がもたらす試行錯誤による技術革新

上記要因による説明の問題点
観察された事実1)を説明できるが2)を説明できない

論証すべき問題
モジュール化が支配的なICT産業でなぜアップルの統合型製品が売れるのか
ICT産業は今後モジュール化から統合化へ移行するのか

モジュール化 問題の所在

田中(2009)はモジュール化について3つの観察された事実を挙げている。
(A) モジュール化は情報通信の世界で生じた
(B) モジュール化が生じたのは最近30年
(C) 統合型製品を駆逐する圧倒的競争力

そしてこれらを説明できる唯一の原因は見当たらず、1)デジタル化、2)技術革新の促進の組み合わせを有力な要因と位置づけている。モジュール化と技術革新はしばしば指摘される点で、小さく分割されたモジュール単位でベンチャーが参入しやすい、またレゴブロックのように組み合わせを試行錯誤してイノベーションが起きやすいという(*1)。しかしこれらの要因ではモジュール化が進展するだけで、統合型へのゆり戻しが説明できない(*2)。デジタル化は進むことはあっても後退することはなく、技術革新の促進も一般に望ましいことだからである。

ここから筆者の問題意識に切り替えていこう。
上記の3つの観察された事実に加えるべき点がある。それはアップルのiPod, iPhone, iTunesとアマゾンのKindleである。前者はハードとネット上のサービスを結びつけ、後者はハードと通信をバンドルしてコンテンツを販売、表示する。そしていずれのデバイスもネットを通じてサービス提供者によるコントロールが可能になっている(*3)。これらは部分的ではあるが統合型製品である。

モジュール化について4つの観察された事実
(A) モジュール化は情報通信の世界で生じた
(B) モジュール化が生じたのは最近30年
(C) 統合型製品を駆逐する圧倒的競争力
(D) 近年、統合型であるアップルのiPod やiPhone, アマゾンのKindleが売れている

モジュラー化された情報通信の世界で、なぜアップルやアマゾンの統合型製品が席巻するのか。モジュラー化による技術革新の促進は引き続き望ましいのに、統合化でこれを放棄するのだろうか。これまで議論してきた要因だけでは説明できないようだ。
さらに、アップルは1990年代にモジュール化路線のPCに敗退し存続の危機に陥った過去がありモジュール化の優位性を理解しているはずなのに、なぜまた統合化を推し進めているのだろうか?


(*1) 例えばLanglois and Robertson(1992), Cowhey and Aronson(2009)
(*2) 田中(2009)の問題意識は情報通信の世界で統合化への回帰が生じている点にある。垂直統合型の携帯電話の隆盛がその一例とされている。
(*3) ジットレイン(2009)はこれらを「生み出す力を持たないひも付きアプライアンス」と呼びインターネットの懸念と捉えているが、ここではそのようなイデオロギー的意味は持たない。

<参考文献>
ジョナサン・ジットレイン,井口耕二訳『インターネットが死ぬ日』早川書房 2009
Cowhey, Peter and J.D.Aronson (2009), "Transforming Global Information and Communication Markets," The MIT Press
Langois, Richard and Paul Robertson (1992), "Network and Innovation in a Modular System: Lessons from the Microcomputer and Stereo Component Industry," Research Policy 21

2011年2月25日金曜日

モジュール化の定義

モジュール型アーキテクチャーとは、レゴブロックのように独立したサブシステムを組み合わせ全体システムを作る構造であり、そのサブシステムがモジュールである。

と言っても実はなかなか難しい。一つには、モジュール型と統合型は相対的である点。田中(2009)の例を借りれば、機械式時計より自動車はモジュール化されているが、パソコンに比べれば自動車は統合化されている。また分析対象も製品レベル、企業のバリューチェーンレベル、業界レベル等、論者によって異なる。例えばモジュール化の代表としてしばしば取り上げられるPCはCPUとOS等を組み合わせて作ることができる点ではモジュール化と言えるが、最近の筆者を含め(*1)、たいていの人はメーカが提供する完成品を購入するから統合的とも言える。さらにインターネット全体で考えれば、PCはネットワークに接続する端末だからモジュールと言うこともできる。このようにモジュール化と統合化の程度は相対的であり、分析対象設定にさまざまなバラエティがあるから統一的に定義づけるのは困難なのである。田中(2009)で引用されるFixson(2007)の論文名。
"What exactly is Product Modularity? The answer depends on who you ask,"

まあそうは言っても定義が必要ということで、ここでは藤本他(2001)をベースに、
1) インターフェースのルール化
2) インターフェースの集約化(機能分化)
3) インターフェースの公開
とする。

1)インターフェースのルール化は例えばネジ穴の大きさやコンテナの大きさを規格化すること。2)の集約化とは例えばPCで計算処理はCPU、画像処理を担当するがグラフィックチップ、昔で言えば音を出すのがサウンドカード(*2)、という具合に一つの機能に一つのサブシステム(モジュール)を当てはめること。例えば自動車のサスペンションは安定性と乗り心地という二つの機能を担当するので、この観点ではモジュール化の程度が低い、となる。3)の公開とは例えば誰でもPCのUSBインターフェースを使う機器を開発販売できる。無料かどうかは問わない。

(*1) 1990年代前半には秋葉原を徘徊してPC自作しておりました。懐かしいあの頃
(*2) 自作PCの話が出たらサウンドプラスターに触れないわけにはいかないだろう

<参考文献>
田中辰雄『モジュール化の終焉』NTT出版 2009
藤本隆宏・武石彰・青島矢一編著『ビジネス・アーキテクチャ』有斐閣 2001

2011年2月13日日曜日

モジュール化考察 再開

モジュール化/インテグラル(統合)とアップルの戦略について昨年9月に問題提起してから早や5ヶ月。むろん筆者とてその間手をこまねいていたわけではなく、iPhone4を買ったりAppleTV導入に四苦八苦したり、猫がゴムを腸に詰まらせて手術を受け保険なしの悲哀を思い知らされたりしながら、沈思黙考を続けていたのである。

時は満ちた。
これからICTとモジュール化の謎を解き明かしていこう。答えが白日の下にさらされた暁にはアップルの戦略をめぐる論争にも終止符が打たれるであろう。たぶん。

2011年1月29日土曜日

先行者優位を考える‐クックパッドと楽天レシピ

CNET Japan が、レシピ投稿サイトの老舗クックパッドを後追いの楽天レシピが猛追しており年内には逆転か、と伝えている。

http://japan.cnet.com/news/business/20425484/

楽天レシピが投稿者に楽天のポイントを付与していることもあり、先行した中小企業を大手がカネと力に任せてつぶしにかかる、という構図が見て取れる。と言いたいところだが、ちょっと待って欲しい。ネット業界は先行ベンチャーが既存大手を振り切って勝利することがきでる、と喧伝されていたのではなかったか?

「オンラインオークションはクリスティーズやサザビーズ(筆者注:既存オークション大手)が始めてもおかしくなかったが、ベンチャーのイーベイが始めて今に至る(注1)」わけだし、アメリカで覇権を握ったイーベイも日本では先行者のヤフーオークションに勝てず2002年に撤退している。

このようにネット業界は大手だから勝てるわけではなく、一定の顧客ベースを獲得した先行者がその地位を継続できることが多い。その傾向が強いからこそ多くのベンチャー企業が成功の先行事例となり、今も成功を目指す多くの起業家をひきつけ続けるわけだ(注2) (注3)。

ネット業界で顧客獲得における先行者優位が強く働く理由を考えてみよう(注4)。
ネットワーク外部性(network externality)を言い表したメトカーフの法則は「ネットワークの価値は顧客数の2乗に比例する」という。だから同時期に創業したベンチャーAがベンチャーBの2倍の顧客を獲得するとそのサービスの効用は4倍になる。新たな顧客は4倍の効用を持つAを選ぶからますますAとBの顧客数に差がつく。顧客数に10倍の差がつくと効用は100倍差になってしまうから、もはやBには逆転の望みなく撤退、となる。
イーベイのアメリカでの成功も、日本での失敗もこれで説明できる。

ではなぜ先行者であり顧客ベースも築いているクックパッドは後発の大企業である楽天に追い上げられているのか?
例えばネットオークションではプラットフォームとしてのオークションサイトに加えて売り手と買い手がいる。基本的に売り手は同じものを複数のオークションサイトに同時に出品することはできないから、オークションサイトを一つだけ選択しなければならない。また、ネットオークションでは金銭のやり取りが伴うので参加者にしてみれば安心安全が非常に重要だし、個人情報やカード情報等を入力するのは最小限に抑えたいだろうから、いったんイーベイで問題なく売買と物品受渡しが完結すれば他のサイトを試してみるインセンティブは働きにくい。
このようにネットオークションでは1)同時に複数のサイトに出品できない、2)取引の安全性が強く要請されこの点がサイトの差別化になる、という理由が相まって一度ネットワーク外部性の効果を得たサイトの優位が維持されやすい。

一方で、レシピ投稿サイトは投稿者が同じ情報を複数サイトに投稿できるし、単一サイトだけへの投稿にとどめるロイヤリティが期待できない。仮にクックパッドが楽天レシピに対抗して金銭報酬を提供しても事情は改善しない。自サイトへの投稿減少を食い止めることはできても他サイトへの投稿を止めることはできないからだ(注5)。
レシピ投稿サイトの閲覧者にとってクックパッドでは有料のコンテンツが楽天レシピでは無料で閲覧できる点も後発の楽天レシピに有利に働く。ただし、後発組が多少の誘因を用意してもそれだけでは先行者優位を崩せないのがネット業界の歴史が明らかにするところである。それはスイッチングコストによるロックインが存在するからだ。

利用者がクックパッドから楽天レシピに乗り換えるに当たって金銭コストはかからないけれど、慣れ親しんだウェブサイト(雰囲気や情報配置、使い勝手)から他に移行するハードルはかなり高い。仮に後発の楽天レシピがそのハードルを下げるためにクックパッドの雰囲気や情報配置、使い勝手と違和感のないようにしたところで、利用者から見れば最善でも両者は同等。であれば、わざわざ移る気にならない、というのが一般的なユーザー心理であろう。

このように、現行のクックパッドには先行者優位は存在するが、例えばネットオークションサイトに比べてその維持には相当の注意と努力を要すると言えよう。

それだけではない。クックパッドのビジネスモデルは無料でレシピの投稿を促し、そこから生成した一部のコンテンツを有料にするものである。しかし楽天レシピはビジネスモデルが異なり、人を集めること、正確に言えば「料理に興味がある」という属性が明らかな人々を多数集め(注6)、自グループ内で購買行動に結び付けてマネタイズを目指す。だから集客のための広告費として、もっとお金を使うことすらできるはずだ。実際CNETの記事中で楽天の担当者はテレビコマーシャルの可能性にも言及している。

サイトに集まる人からお金を取らねばならないクックパッドと、サイトに人を集めるためにお金を使える楽天レシピ。それは両社の規模や財務体質の問題ではない。どこにお金を使ってどこからお金を得るか、というビジネスモデルの問題なのである。

勝負はまだついていない。両社の健闘を祈る(なんてね)。

【今日の教訓】 ネット業界にはネットワーク外部性による先行者優位が存在するが、その優位性の維持については業種業態により難易度が異なる。油断大敵。

(注1) ジョナサン・ジットレイン『インターネットが死ぬ日』  p154
(注2) 楠木建『ストーリーとしての競争戦略』によれば、楽天はEコマース参入時において大手の先行者が存在したが、工夫と努力でこれらを追い抜いた。だからネット業界においても先行や大手であることが絶対的な優位性を提供するわけではないことを初期の楽天自身が示している
(注3) ネット業界は一般に製造業に比べて必要な初期投資額が少ない点も理由の一つ
(注4) わざわざ「顧客獲得における」としたのは、創業やサービス開始時期そのものではなく、顧客の獲得数が重要だからである
(注5) 逆の見方をすれば、楽天レシピもレシピ投稿数で他社に抜きん出た地位を確保するのは難しい
(注6) 顧客属性、特に絞り込まれたそれは広告の観点で非常に価値が高い

※2011年2月26日 ロックインに関する記述を追加

2010年12月6日月曜日

コンテンツへの対価支払システムとしての広告 その4

2005年から2009年にかけての広告費の推移をもう少し詳しく見てみよう(注1)。

 20052009増減
総広告費68,23559,222-13.2%
    
新 聞10,3776,739-35.1%
雑 誌4,8423,034-37.3%
ラジオ1,7781,370-22.9%
テレビ20,41117,139-16.0%
マスコミ四媒体広告費37,40828,282-24.4%
    
インターネット広告費3,7777,06987.2%


一見して明らかなのは新聞・雑誌の急激な落ち込みで、それぞれ35.1%,37.3%と5年間で3分の1以上を失っている。それに対して最も規模の大きなテレビは相対的に落ち込みが少なく、16.0%の減少にとどまっている(それでも絶対額としては3,272億円の減少)。新聞・雑誌はテレビの2倍以上、減少しているのである。
なぜこれほど新聞・雑誌とテレビで差がつくのか。

これまでの考察を当てはめれば、視聴者のeyeballは従来メディアからネットに移行し、広告もそれを追いかけてネットに移行した。
もともと視聴者の属性を何らかの点(例えば趣味嗜好、居住地域等)でカテゴライズし絞り込んでいたのが強みだった新聞・雑誌広告はネット広告、特にネット検索広告と競合し、かなりの部分が代替された。しかしネット広告及びネット検索広告は既に述べてきたようにマスに対するリーチは不得手で、この点で優位性を保っているテレビは視聴率を落としながらも「他に代替策がない」という理由でマス向けの広告を引きつけ続けている。

ちなみにインターネット広告費7,069億円のうち、検索連動広告費は1,934億円(PC:1,710億円,モバイル:224億円)であって、実は3割にも満たない。ということは現時点において日本では「絞り込まれたユーザ」を対象とする雑誌・新聞広告、ネット検索広告の規模は広告費全体に比べて小さく、また雑誌・新聞からネット検索広告への移行は一段落している。

【本日の結論】
広告費の大部分は(意外にも)マスへの訴求、認知獲得を目指しており、影響力を落としていると言われるテレビしかその役割を果たせないため、広告主は消極的にテレビを選択するか、広告を控えるかのいずれかである。
だとすれば広告主は現状に大きなフラストレーションを抱えているのではないだろうか。

※2011/03/08 追記
3月2日、佐々木俊尚さん( @sasakitoshinao )がツイッターでうまく表現しているので引用。
いまのネット広告は消費のパッションを生まず、消費を刈り取るだけ。だからテレビCMをまだ超えられないんだよね


【注】
(注1) 電通(2010年2月22日付プレスリリース)

2010年11月19日金曜日

コンテンツへの対価支払システムとしての広告 その3

なんだか指摘を受けて日和見したと思われるのは心外なので、この件を考えるきっかけになった元ネタを引用。
米ニューヨーク・タイムズが2007年にウェブ版を無料にした。紙媒体の購読者数は110万人、ウェブ版の訪問者は5000万人/月。2008年の広告収入はウェブ版が約2億5000万ドル、紙媒体は約20億ドル。つまりウェブ版は紙媒体に対して50倍の読者を持ち、10分の1程度の広告収入しか得られなかった。(注1)
厳密な検証は横において、大事なのは「既存媒体からネットに移行したeyeballを追いかけても(そして首尾よく捕まえたとしても)、ウェブ上で得られる広告料は著しく低下する」ということである。昨日のエントリの結論を一歩進めて「同一のeyeballであってもマスメディア上とネット上では広告価値が異なる」のだ。

経験的にそんなことは当然と思うかもしれないが、ここでのテーマであるコンテンツ生成システムの観点から考えると1)記者に記事の対価を払えなくて困るという現実的問題に加えて、2)減った広告料はどこに行ったのか、という問題が生じる。

これが本件考察の入り口だったのである。ほんとに。

また、ツイッターで@ozyszmさんに教えていただいた電通のリサーチ(注2)でもGDPに対する総広告費の割合は2005年から2009年にかけて1.36%から1.25%に低下しているから、景気後退の影響以上に広告費は減っている。同じ期間にインターネット広告費は3777億円から7069億円へと2倍近い伸びを示しているにもかかわらずである。
これはニューヨーク・タイムズの事例同様、既存マスメディアからネットへ移行したeyeballを追って広告費も既存マスメディアからネットへ流入したが、eyeballの広告価値が低くなるため、全体としては広告費が減少してしまったと考えられる(注3)。

失われた広告費はどこへ?

【注】
(注1) 岸博幸『ネット帝国主義と日本の敗北』幻冬舎,2010,p64 を要約
(注2) 電通(2010年2月22日付プレスリリース)
(注3) 今まで既存マスメディアでは出稿できなかったニッチな広告が新たにネットに参入したことを考えれば、既存マスメディアがネットへ移行した時の広告費減少幅はもっと大きいと推測される。

2010年11月17日水曜日

コンテンツへの対価支払システムとしての広告 その2

ツイッターつながりで@sakaimaさんがご自身のブログでコメントをくれたので、それを踏まえてもう少し考えてみる。

もともとこの件はホントに新聞/雑誌で減った広告費が全てネットに移行したのか、という疑問が発端で、もっとネット広告にお金を投入せよ、と主張しているわけではない。一方で現実に新聞や雑誌は苦境にあり、デジタル時代に「ジャーナリズムを誰が支えるのか?」という課題(新聞社/雑誌社の経営ではなく、記事というコンテンツ生成のシステム)は大きな問題だと思うので、あるべき姿なり解決策を僭越ながら考えている次第である。

話を戻すと、前回の論旨は「eyeballがテレビ等からネットに移ったほどには広告費はネットに移行していない」だった(注1)。
同じくツイッターで@ozyszmさんに教えていただいた情報によると、伸び続けてきたネット広告も頭打ち感があり、足元では年末に向けてテレビ広告が順調だという。やはりeyeballの移行に広告費が追従しないのだ。その原因として以下が考えられる。

1)なんらかの理由でネットへの広告費支出が妨げられている
2)eyeballの広告価値がテレビ等とネット上では異なる
3)そもそも既存メディアの広告価値低下はネットの影響ではない

上記2が@sakaimaさんの指摘である。その点について考察。
グーグルの検索広告は読んで字のごとくユーザの検索行為がトリガーになる。ここには二つの含意があって、一つはユーザが能動的に動く必要がある点(注2)。もう一つはユーザは認知していないものは検索できない点である。検索によるターゲティング広告の高い効率性は間違いなくイノベーションであり、広告効果の定量的把握の容易さと相まって急速に世界中を席巻したが、AIDMA(注3)であれAISAS(注4)であれ、ユーザが認知してからでないと出番が無い。商品やサービスの認知は検索広告では実現されず、少なくともわが国では今でもマスメディアがマス向けの認知を担っているのである。ちょうどこれを書いている11月17日付の日経ビジネスONLINEは「SNSがテレビCM? 外国人が信じられない理由」という記事で日本の特異性を伝えている。

認知用のマスメディア広告と、ターゲティングの検索広告は競合と言うより補完関係だ。そして現状の広告費内訳を見る限り、マス向け広告の比率は高い。こう考えると完全マス向けのテレビと全国紙が相対的に堅調で、中途半端なターゲティングの雑誌や新聞が苦しくなるのが論理的帰結。

eyeballの広告価値は、AISASのSearch(検索)まで来ればネット検索において非常に高いが、大多数のAttention(注意)以前のeyballについてはテレビ等の方がネット閲覧よりも高いのだろう(注5)。ネット広告はマスメディアから移行してきた多くのeyeballをマス向け認知広告に上手く利用できていないのだ。結果としてeyeball当りの平均広告価値は従来型マスメディアの方が大きい、というのが現状であろう。従って、eyeballの広告価値はネット上とテレビ等では同一ではない。

もちろんグーグルを含めて各社が検索広告の限界を超えるべく、ライフログ的情報蓄積&解析を持ち込んで自社が取り扱う広告のフィールドを広げつつ広告効果を上げようと試みているが、この方向性に一本調子に進むかどうか、技術的に可能であっても社会がそれを許すのか、個人的には若干の懐疑と不安を持っている。仮にこの方向に進むとすれば、広告費の配分において既存のマスメディアよりもグーグル等のネット企業の存在感が増すことになろう。その場合、媒体は何で、コンテンツは誰が作るのだろうか?

【本日の結論】
マスコミ四媒体広告費合計2兆8千万円に対し、インターネット広告費は約7千億円で頭打ち傾向(2009年,電通調べ)。マス認知用の従来型マスメディア、ターゲティング広告用のネット検索広告が補完的関係で住み分けつつある。
eyeballが従来型マスメディアからネットへ移行しているほどには広告費がネットへ移行していないことは、従来型マスメディアにおけるeyeballの平均広告価値がネット広告におけるそれよりも高いことを示唆している。

うーん、アメリカと違って日本では従来型マスメディアが早々にネットとの均衡を得てコンテンツ生成/広告費配分のプラットフォームであり続けるのかな。。。それならジャーナリズムの行く末を私がそんなに心配して考えることもないのだけれど。

【注】
(注1) テレビではなく、新聞/雑誌を例にとった方が良かったのだろう。
(注2) 同じネット上の検索でも、日本では受動的に画面上からディレクトリを選んでいくヤフーの人気が高く、アメリカでは能動的にキーワードを入力するグーグルが支配的である。
(注3) AIDMA ; Attention(注意), Interest(関心), Desire(欲求) , Memory(記憶) Action(行動)
(注4) AISAS ; Attention(注意), Interest(関心), Search(検索), Action(行動、購入), Share(共有、商品評価をネット上で共有しあう)
(注5) テレビや新聞雑誌でAttention(注意)を得てネット上でのSearch(検索)に誘導する広告が多いことがこれを裏付ける。

2010年11月16日火曜日

コンテンツへの対価支払システムとしての広告を考える

デジタル時代のコンテンツについて、対価支払システムとしての広告から考えてみた試論。

【前提】
テレビ、新聞、雑誌等の広告費を主な収入源とするメディア(以下「テレビ等」)はコンテンツで視聴者のeyeball(目玉)をできるだけ多くひきつけ広告に誘導することによって対価として広告費を受け取る。受け取った広告費はコンテンツ製作者に配分される。これが既存のマスメディア広告システム(注1)(注2)。

【仮説】
1)ネットの台頭によりテレビ等の視聴機会が減った(注3)
2)テレビ等広告へ投入される広告費は減少し、その分がネット広告へ回った(注4)

【脳内検証】(数値は仮のもの)
例えばプロ野球中継がドル箱だった時代の試合中継広告費を100とする。視聴率が低迷してテレビ広告効果が落ち単価が40%下落して広告費が60になるべきところ、単価が落ちた分を広告回数を増やす動きによって総額は75になった(A)。ネットにeyeballを奪われたのであれば、残り25はネット広告に回るはず(B)。ところが実際には10しかネット広告に移行していない。

(A)単価下落を回数増で補った15のうち6はネットに移行したeyeballを追ってネットに移行すべきだったのに、なんらかの理由、例えば適当なネット広告出向先が見当たらない、クライアントの理解不足等でテレビに滞留(a=6)。

(B)テレビ等広告が失った25のうち10しかネットに移行しておらず、残りの15は広告に支出されず広告費純減(b=15)。

従って理論的にはテレビ等が失った25とネットに移行すべきなのにテレビ等に滞留しているa=6を足した31がネット広告に支出されるはずであるが、実際には10しかネット広告に移行していない。現状のネット広告市場は本来のポテンシャルの3分の1の規模に過ぎない。

【脳内結論】
既存マスメディアがネットに視聴者のeyeballを奪われているのは事実だが、広告費の移行はeyeballの移行に比例しておらず、ネット広告は現状の数倍の市場規模になるポテンシャルがある。ネットへの広告費がスムーズに移行していない原因には広告効果の評価基準が定まっていないことや、テレビ等が果たしていた「マスへの訴求」がネット広告には欠けている点等が挙げられよう。
いずれにせよ、現状のグーグルに代表されるネット検索広告は「お金を払ってeyeballをつかまえる」システムとしては思われているほど万全でもないし、支配的でもない可能性がある。

【言いたいこと】
コンテンツ製作者へのネット上の対価配分システムはグーグルの検索広告で完成したわけではない。まだ大いなるイノベーションの余地がある。

【補足】
下記注3,4で明らかなとおり、ネット化による構造変化によって広告費合計は100を大きく下回るのかもしれない。そうだとしても、資金供給側がかつては100を支出していた(実際には消費者が負担していた)という事実はコンテンツ製作者への配分を考える上で示唆に富む。

【注】
(注1)音楽、映画は消費者がコンテンツに直接対価を支払うシステム。

(注2)雑誌、新聞も購読料としてユーザから対価を得る部分もあるが、それだけでは経営が立ち行かないのは雑誌、新聞の現状が物語っている。それでも日本はアメリカよりも購読料の割合が高いのでネットのマイナスの影響が相対的に少ないとの指摘がある。

(注3)厳密にはライフスタイルの多様化に伴うものであり、すべてがテレビ等からネットに移行したわけではないだろう。

(注4)もともと既存マスメディアは流通を独占してレント(超過利潤)を得ていたとの指摘がある(注5)。だとすれば、ネット化で流通独占が崩れたことによって広告費全体が減少する。例えば従来100だった広告費がネット化によって90になるのかもしれない。

(注5)例えば、佐々木俊尚『電子書籍の衝撃』(2010),岸博幸『ネット帝国主義と日本の敗北』(2010)